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【旅】2022年5月24日~6月1日 GoToエリア割拡大:四国へ---続き--- [【旅】2022年]

5月24日(火)
 昨日、再就職支援プログラムの終了契約書に印鑑を押し「もう就職はしない」宣言をして、本日8:33 自宅駐車場出発。最終日の予定は未定であるが、疲れたらすぐに帰れる距離なので、疲れ果てるまで楽しむ気持ちで瀬戸大橋を渡る。昨夜は諸先輩よりご連絡を頂き、恐縮しながら、今夜の宿である鳴門を目指す。
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水島IC~坂出北ICまで2,020円(ETC)は有難く、1988年の開通当時と比べるとお気軽な価格である。快晴の瀬戸内を渡り与島で休憩、番の州の瀬戸大橋記念館に立ち寄る、建設当時の機材など見ながら、橋を設計施工した人々は、もうこの世には少なくなったのだろうと思いながら、地図に残る建築物に携わった仕事は誇りだっただろう... 大久保諶之丞の小さな像が園内にあった。
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 昭和43年9月陸続きとなった瀬居島に行って見る。陸続きのまま、番の州の工場地帯から、離島の風景に急に変わる道路や家や人々。半世紀を経ても離島の風情が残る瀬居島は、未来の瀬戸内の目安なのかも知れない。残すべき風情は確実にあると思いながら、小学生の遠足らしき集団の早弁に背中を押され、坂出市内のうどん店に入る、人気店らしく、入店に並び「かけうどん」の注文で25分待たされた。あり得ないと思いながらも、厨房はおやじ、ホールはかーちゃんだけの二人体制。全席14名のカウンターは、全てカレーうどんを注文する中で「かけうどん」を食す、うまい。
 r161さぬき浜街道で高松市、R11で志度を通過中に古い街並みが見え「平賀源内記念館」という看板を見て立ち寄る、江戸の発明家?程度の認識だったが、讃岐の人だったと知る。学ぶことが好きな、多趣味の人だったのだろうと想像するが、51歳で亡くなっていた。
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移動距離:163.2km
宿:鯛丸海月

5月25日(水)
昨夜は日没と共に眠ったので、夜明け前に起床。5時から「お茶園 展望台」から鳴門の景気を眺め、千畳敷まで散策した。
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9:00宿を出発、リゾート感のある白砂の海岸線を南下、あわじ方面は水蒸気で霞んで見えた、だから淡路というのかなぁ?
 とりあえず興味のあった「鳴門のいも屋」に寄る。昨年の芋はもう無いらしく、次の収穫まで芋棒は品切れだった。R11→r12を西に向かう、沿道には水田もあるが、レンコン畑やさつま芋、果樹、イチゴ等の農産物の生産エリアだ。
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大谷焼の窯元「森陶業」を見学、大きな甕が目立つ。
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 第1番札所 霊山寺に立ち寄ってみる、60歳になったら四国遍路八十八カ所の旅をしてみよう。そんな事を話しながら「道の駅 第九の里」鳴門市ドイツ館を見学。この地にドイツの人が、1000名近く収容されていたなんて知りませんでした。
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板東俘虜収容所の歴史を残すためドイツ館があり、収容所跡地は、ドイツ村公園として整備されていた。1917~1920年までの3年間だったようであるが、この地の人々は、見た事のない外国人から食生活、スポーツ、芸能、音楽を通して多大な影響を受けたのだろう。隣に賀川豊彦記念館があった、これまた何の知識もなく見学する。偉人を美化する地元愛は美しいが、施設の高齢化は展示システムを含めて見直していかなければならない。2つの施設は旧態依然とした運営施設だった。展示内容を変える必要はないが、運営は変えて行く必要があるだろう。大きなお世話であるが、このままではどこかで行き詰る。継続してこそ、施設は後世に情報を伝える事が出来ると思う、出来るだけ早めに、若手の意見を取り入れた対応を望む。「道の駅 いたの」でランチを済ませ、藍住町の藍の館に行って見るが休みだった。少し早いが徳島市の宿に向かう、天候もよいので山から市内を一望。
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ここは眉山と書いて「びざん」と読む、島原大変肥後迷惑で崩落した山は「まゆやま」と読む、ここの「びざん」は遠方からみると、眉の形に似ていることから、眉山と名付けられたと紹介されていた。ならば「まゆやま」と発音した方が自然なのではないか?街のシンボルに因縁をつけても仕方ないので、誰かに聞いてみたい。蜂須賀さんといえば↓この人しか知らないが、徳島藩祖の大名は蜂須賀家政という人物だった。
https://www.sony.jp/ichigan/a-universe/seminar/professor/17/
移動距離:65.0km
宿:グランドパレス徳島

5月26日(木)
 徳島市は海から日が昇り、山に落ちていく。なので日の出は早く、夕刻のマジックアワーは長く感じられる。
 東沖洲を経由してr129で、日峯山展望台から徳島市を眺める。小松島市を通過し、パンフレットに記載されていた「お松大権現」に行く、招き猫が沢山奉納されていた。何故ここが観光地なのか?理解できないまま、目的地の上勝町へ、ごみの集積所と剣山スーパー林道の入口まで行って見た。山道の不得意なこの車では、林道走破は不安なのでこれ以上は行かない。天候は雨となり、早めに宿に戻りレストランで食事を済ませ眠る。
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移動距離:113.0km
宿:グランドパレス徳島

5月27日(金)
 早朝から市内散策、阿波おどり会館の隣に菅原道真を祭った天神社があった。
宿泊所の近くに「武士の情け」という石碑があった、遠目で見えただけだったので、内容はわからなかったが、後日、坂東捕虜収容所の所長だった松江さんを記したものだと知る。持ち帰った「松江豊壽・生誕150年記念企画展」パンフレットを見ていると、松江さんの長男が、父を表現する言葉に「武士の情け」という言葉がぴったりしていると表していた。職務上の報告書と、収容現場のあるべき姿を、自身の思いをもって試行錯誤しながら貫いた事が、現代に評価されている。当時は異なる評価もあったと想像する。現時点で戦時下にある、大国の兵士に知らせてあげたい。
 今日は移動日なので、8:30出発、鳴門の芋畑を見学していると、遠方に城らしいものが見えたので立ち寄る。ここの駐車場には白バイ10台程度と警察関係者が多数集合していた。何かの慰霊碑に向かい黙とうしていた。興味を持ったが、知っても幸せなものではないと想像する。
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 追記>https://www.topics.or.jp/articles/-/712693
妙見山公園にあった城は「トリーデなると」という施設だった。週末のみの開館、ここから芋畑を一望してみたいと思ったが残念である。駐車場に戻ると若手警察官より「慰霊碑の関係ですか?」と問われる、私の外観が高齢者に見えるので、遺族関係者に見えたのだろう、その後集まってくる喪服姿の方々... 
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 鳴門ICから板野ICまで高速道路を利用して、「ジャパンブルー」藍の事がもう少し知りたくて上板町の「技の館」に行くが、体験施設なので展示は無く、上板町歴史民俗資料館に入ってみる。この地に嫁入りした時に、乗って来たという、誂えの駕篭が置いてあり、内装がおしゃれでした。現在で例えるなら、嫁入り道具に高級車の藍富豪の娘さんだったのだろう。藍の苗の現物や、採取時期、葉っぱだけでも染まる事などを、受付女性より教わり、藍の種も頂きました。植えると虫が沢山付くので注意だそうだ。藍のすくもは作れないが、葉っぱ染めならできるのかも?阿波和三盆の紹介もあった、前回の旅で、香川の引田町で、和三盆のお店や看板を多数見ていたので、香川県側での生産が中心かと思っていたが、四国では、こちらの方が早くから、砂糖製造している地域だった。九州を旅した修行僧から聞いた、砂糖製造情報を元に、丸山さんが日向の国まで2度出かけ、製造方法をコッソリと見聞きして、サトウキビを竹杖に隠し、この地に持ち帰ったそうだ。隣の岡田製糖所が気になったので寄ってみる、売店しかなく和三盆を購入。
http://www.wasanbon.co.jp/about/index.html
工場併設の母屋は軒が高く、興味のある建築物だ。サトウキビ畑はどこにあるのか聞くと、道隣にあちこちありますよ。という回答、何を聞いてくるのか?と不思議そうに思われた、出てみると20cm程度の苗が生えていた。
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私の知る限りでは、サトウキビは植えてから2~3年育てて刈り取るものだと、沖縄で聞いた。もっと知りたいが、しつこく質問すると、現代の丸山さんになりそうなので止めた。冬は越せないと思うので、相当小柄なサトウキビ状態で収穫するのだろう、収穫期を見てみたい。
 吉野川北岸のr12を西に向かい、道の駅「藍ランドうだつ」に立ち寄る。藍産業の分限者の街並みは、綺麗に整備され、観光地化が進む。吉野川の事も知りたいが、時間は限られ美馬ICから高速道路へ、吉野川SAに立ち寄ると「美濃田淵」という看板があり、川の方面に降りてみると、岩と深そうな淵があった。無料の好立地キャンプ場があり、水やトイレの整備もされているし温泉設備もある、ここなら住める... が長期間(1週間以上)の利用はお断りとなっていた。
 新居浜ICで降り、別子銅山の山が見たくr47を南下、東平地区は通行止めで入れず、そのまま峠越えのところまで行って見た、山の大きさを実感。17:30西条駅前にチェックイン、楽しくおいしいお酒を頂きました。
移動距離:215.9km
宿:西条アーバンホテル

5月28日(土)
 昨夜、明日は天候もよいので、瓶ヶ森方面へのドライブを勧められたので、7:30に宿を出発。R194で寒風山トンネルを越える、1999年に完成した5.4kmもある長いトンネルで一気に高知県へ、直線の上り坂だった。出口の先を左折Uターンで旧道に入る。
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週末だが早めの時間帯だったので、対向車は無くUFOラインに到着。吉野川源流の碑、瓶が森登山口駐車場に車を置き、少しだけ歩いてみた。人が少なく風でざわつく笹の中から、クマでも出そうな雰囲気だった。クマ除けのベルを持って、山に登る準備をして再度来る事にしたい。気温18℃と心地よい。24mmレンズでは入りきらない風景だ。
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新たな施設らしい、山荘シラサに立ち寄る、雰囲気がよくソフトクリームを食す。ここで面河山岳博物館の企画展~動画でたどる昭和の面河渓観光~というチラシを見つけ後ほど、面河山岳博物館に寄る事となった。石鎚山の駐車場まで来ると、見覚えのある道だった。かなり前にここまで来て、長男と石鎚山に登った事を思い出す。登った道はその分だけ下る。1ペダル操縦の便利な車だが、回生ブレーキでバッテリーが満充電になると、ブレーキペダルを踏まなければスピードは落ちない。今までアタリマエだった運転方法であるが、慣れると面倒くさい。人間は楽チン便利に流される。面河山岳博物館では、展示内容よりも各種カエルの展示がおもしろい、鮮やかな青色のカエルに驚かされた。近所の人々が見つけて持ち込むらしい、地域の博物館として機能している証明だ。
 今日の宿である松山市に向けてr12→R494→r210と移動、途中で古岩屋という、大きな岩に穴が開いた礫岩が多数ある。ここも24mmレンズでは、入りきらない光景だった。r12→R440で久万高原町に下りてきた、と思っていたらR33の三坂トンネルで、三坂峠を越えると、更に下界の松山平野が広がって見えた。名前通り(久万高原町)の場所に少し興味津々となる。16:00前にチェックイン、前日に引き続き、おいしいお酒を6時間楽しみました。感謝...
移動距離:145.8km
宿:ターミナルホテル松山

5月29日(日)
 昨夜は、日付け変更前ギリギリに戻ったと思うが、朝からスッキリと酒は抜けていた。今治方面を回っていなかったので、早めに出発し向かう。途中「伊予和気」という駅に立ち寄る、岡山の和気と何か関係があるのかな?と思ったが、何もわからなかった。田園地帯の残るエリアで、所々に庄屋さんの様な農家もある、郊外店舗、住宅街が広がる、井関農機本社がここだった。松山市北部は広い農村エリアだった証明だろう。桜田淳子さんの「さなえ」のTVCMが記憶に残る。
https://www.youtube.com/watch?v=dcVF-ttjisk
 青空の広がる海岸線r347を北上、道の駅 風早の郷・風和里で休憩、広い瀬戸内を眺める。
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R196で菊間へ、多数の瓦屋さんが道路沿いに並ぶ、「かわら館」に寄ってみると、迫力のある鬼瓦が印象的な伝統ある芸術作品だ。淡路瓦との差はわからないが、菊間瓦の鬼瓦は独特。
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茅葺屋根同様に日本の伝統工芸として、瓦屋根の家も後世に残って欲しい。温暖な気候、材料、海上輸送の3つの条件と、木型製法による大量生産が、菊間瓦製造の発展要素だったらしい。銀行支店や、商店が凝縮されている町内に、歴史のあるエリアの繁栄が感じられる。
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その先は太陽石油の大きな施設があった。今治城を車窓から見学し、日本食研世界食文化博物館に行って見る、残念ながら臨時休業継続中、振り返ると海越しの石鎚山が美しい。
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 夕方、松山市内に戻り松山城内散策、愛媛県庁の頂上に違和感があり、確認すると野球のボール型だった、今年は、坊ちゃんスタジアムで、プロ野球オールスターゲームが7月に開催されるらしい。
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日は高いが既に17時を過ぎ、松山城登頂は断念、エリア割クーポンの消費に、デパート内で夕食を済ませ、屋上から市内を眺める、近づく夏の予感がする、少し暑い日だった。
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移動距離:125.7km
宿:ターミナルホテル松山

5月30日(月)
 昨夜からの雨は、出発時に降り止んでいた。今日は内子に向かう、ここには古い街並みの残る内陸部の交通の要衝という程度の認識で、道の駅から歩いて回る。整備された街並みを見学、木蠟資料館 上芳我邸(もくろうしりょうかん かみはがてい)@500円に入るまでは、木蠟とは、電気の無い時代の照明として使われた、ローソクの事だろうと思っていたが、そうではなかった。資料館内では、木蝋生産の工程が紹介され、現場は当時のままの場所に置いてあった。作業場の中央には、モクレン科のタイサンボクが大きな花を咲かせていた。
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 江戸中期に始まった蝋産業が、1世紀を経て大量生産方法を開発し、明治時代に開花。この期間中に人の営みに必要な全ての業種が、内子町内に存在し、地域全体が隆盛を極めたのだろう、残念であるが大正時代に、次の産物により終わっている。伝統的な品も製法もやめてしまえば昔の事。伝統工芸も収支のバランスがとれる業を開発し続けなければ残らない。残ったものは、昔の産業に携わった人々の家と街並み、そして観光地化。
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ハゼの木は福岡県久留米市のアジサイ寺(千光寺)の近くに、ハゼ並木があった事を妻が思い出す、木柳坂曽根の櫨並木(やなぎさかそねのはぜなみき)という紅葉スポットとして紹介されていて、自身は幾度も歩いているが、蝋産業については知らなかった、築後式のハゼ晒方法から、内子の上芳我家では伊予式箱晒法を開発し、大量生産が可能になったと紹介されている。九州で盛んに製造されていたそうであるが、九州地方では蝋産業を説明している場所を知らない... 2時間以上見学したが、興味深くもう少し散策をしたいが、小雨模様と空腹に押され退散、フジ内子店でうどんランチ。今夜の宿の大洲に向かう、天守閣のある城下町も観光化が進む。目立つのは宿泊所「NIPPONIA HOTEL」夕刻から雨模様、宿の近くの山にかかる霧と雲の変化が早く、個人的には珍しかった。肱川流域では普通なのだろうか?
移動距離:95.5km
宿:オオズプラザホテル

5月31日(火)
 昨夜も雨だったが、目覚めると雨上がりの朝、8:00出発。佐田岬を目指しナビ設定、距離77kmを示す、今日は長距離移動を覚悟してスタート。伊方原発を過ぎると、岬までの道は誰もいない快適なドライブコースとなる、高台から見える海を望みながら、制限速度+5km/hでゆっくり走る。
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岬駐車場には「押し売りにご注意ください」の立て看板があった、どんな押し売り屋が登場するのか?身構えて歩くが誰もいなかった。この看板により、駐車場手前で大きなミカンをもって、万歳していたおばあさんのところに、帰りに立ち寄ろうとしていたが通過した。しかしよく考えると、自宅前でミカンを売っているおばあさんが、悪質な押し売り屋であるはずがない。今日は先を急ぐので、Uターンはしなかった。岬からの戻り道で、青く大きな40cm位のミミズがいた、初めて見たので佐田岬先端の固有生物かと思ったが、検索すると「シーボルトミミズ」というらしい。光が当たると七色に光る。捕まえて持ち帰えり博物館に相談しようなど到底思えない、これも私の老齢化現象だろうか?
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 教えてもらった「コケムシロ」に立ち寄る。極小棚田に杉の植林、地面がコケという場所だった。元棚田故に、水路はそのまま使え、植林後の日影がコケの育成に良い環境だ。管理費100円を投入し、しばらく木陰で休憩。木漏れ日と涼しい風が気持ちよく、しばらく昼寝をする。わが田舎の環境も同じような事は可能だが、手入れに相当な時間がかかると思われる。ここまで拘らないと見せられるものは造れない。帰ったら生え放題の草刈りをしなければ...
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 17:20到着、ホテルチェックインするが、素泊まり事前カード決済済みで、エリア割にはなっていなかった。淡々と勝ち誇った様にアナウンスされるフロントからの注意事項は、全く耳に入らず自己反省。予約時に部屋だけ押さえておいて、事前に修正しようと思ったままだったのだ。
移動距離:267.2km
宿:中村プリンスホテル

5月31日(火)
 今日は帰る。
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昨日の失敗から朝食は無し、残り物を食して8時前には宿を出る。R56北上、今年1月に車中泊時、深夜地震に見舞われた黒潮町の道の駅に立ち寄り、四国旅を納得する。
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土佐市から仁淀川を北上、伊野からR33→高知商業前から、r44で高知市北部を通過、再びR33で香川へ、坂出IC→水島ICは以外は有料高速道路は使わず、17:50自宅到着。
移動距離:318.2km

全移動距離:1509.5km 使用燃料:87.05L 燃費:17.3km/l